23歳になりました。

ということで9/16は私の誕生日です。

本来誕生日というものは喜ばしいものですが、去年辺りから誕生日に対して"喜び"よりも、"若者から離れていく焦り、悲しみ"のほうが大きくなって来てしまっているのを実感しています。

現状レールから外れてしまっている状態の自分にとって同い年の周りの人間が活躍したり、人として正しいレール上の生活をしている姿を見ると、少なからず心が締め付けられる。そんな日々を送っています。

 

"何の取り柄もない"人間でも、それを自覚し、才能を諦めることで所謂普通の生活を送ることは可能です。恐らく世の中の95%はここに収まることで、普通の生活を送っているものだと思います。

この「自覚し諦める」事が出来る思考は、自分は精神の成熟とともに身につくスキルだと自分は考えています。

小さい頃に大きな夢を持つ。成長していくにつれ、自分より優れた、より才能がある人間に出会う。自分に才能がないことを突きつけられる。そして夢を諦め、レールに沿った人生を歩んでいく。これはとても一般的な精神の成熟の一途だと思います。

ただ自分は、このような精神の成熟過程を辿れないまま23歳になってしまいました。

"才能がある"と言われ続け育った自分にとって、自分のアイデンティティは"何らかの才能"で構築されてしまっており、だからこそ"それ"を否定することは自己の存在を否定することに直結してしまう。これが23歳、現在の自分の思考です。

このような自己が構築されてしまった原因を育てた親に求めるのはとても簡単なことです。自分の非を、思考停止しながらすべて放棄することが出来るからです。3年くらい前は、自分もこの思考でした。

ただ、やはり過去に原因を求めても現状の解決には何も貢献してくれません。重要なことは、将来・未来の自分が現在の思考とどう向き合っていくか、もしくはどう変えていくかです。

そろそろレールに乗らずに生きていく方法を見つけるか、もしくは何らかの形でレールに乗り直す必要がある時期に差し掛かっています。ただ自分がそうするためには、やはりアイデンティティである"何らかの才能"の「何らか」を明らかにする(現在の思考と向き合う)か、凡才を自覚しディスアドバンテージを背負った状態からレールに乗り直す努力をする(現在の思考を変える)必要があります。

 

ということで、23歳の目標。

(賭博以外で)自分の人生に直結する大博打を1つ打つ。

自分の才能を肯定できる可能性のある博打を1つ打ってみたいな、と思います。そしてその博打が失敗しても、自分の才能に見限りをつけられる。そんな後悔のない博打が理想です。

博打の結果が1年後には出ないかもしれません。それでも、結果が出る、もしくは結果を決めるまではその博打は成功するものと思ってやり続ける必要があると思っています。

 

賽は投げられた。

 

1年後、平和な世界で成長して会えるのを楽しみにしています。もし会えたら、その時は私の24歳を盛大に祝ってください。

9/16、覚え方は3の2乗に4の2乗です。ぜひ覚えておいてください。

 

それでは、23歳、スタート。